「生かされている」というかんじ
福岡の親友から小包が届いた。
中身は、ビーツの酢漬け。
彼女のもうひとつのふるさとであるモンテネグロではポピュラーなものだそう。
手紙には、鉄分も豊富だということや
元気でがんばってねという言葉がならんでいた。
昨晩いただいたキーマカレーとともに、
心温まるおひるごはんを美味しくいただいた。
カレーも、ビーツも、
どの時点かでわたしのことを想ってくれたんだなとおもうと
とても胸があたたかい。
思うのだけど、
わたしは辛うじて死なずにすんだという思いがあって
「わたしは生かされたんだ!」と信じなければ
ふとした瞬間に暗い世界にひきずりこまれるような気がして
こわかった。
せっぱつまって、しがみつくように
ひとりで磨き続けてしまった冷たい思いだった気がする。
でも今、あたたかくやわらかい気持ちで
「わたしは生かされている」と思っている。
それは、「わたしは人とつながっている」という全然いままでとちがう感じ。
わたしは生かされている。
わたしのよろこびや悲しみや健康はだれかと無関係ではない。
こんなふうに思えるようになるときが来るなんて思っていなかった。
ちいさな、でも確実な変化がしずかに起こっているのだ。
あんなにも隣にあった死の世界が、だいぶ薄まって遠のいている。
そのかわりに、ゆるゆるとした幸せなかんじがひろがっている。
びっくりだ。