「おいしかったね」
シアトルにいた一か月の間、
はじめて会ったひとでも1時間でもいっしょにお話しすれば
別れるときハグして"Nice to meeting you!"と言い合った。
まるで、ナイスではない出会いなんてないみたいに。
日本で、「会えてよかった」と言うのはおおげさな感じがしてはずかしい。
わたしのまわりには、別れるときハグしてくれる人がわりといて、
それだけでも「これからもずっと一緒」「応援してる」とか色々伝わるけど
やっぱり言葉でも伝えたいな、と思っていた。
昨日、仲間たちと「おいしい」ってなんだろうね、という話をしていて。
「おいしかったね」と言うのは、「あなたといて楽しかった」ということだ、という話になってなるほど!と目からうろこ。
うんうん。きらいな人とはごはん食べたくないし、
わざわざ食事後にも余韻として「おいしかったね」と言うのは
まぎれもなく、「あなたとの時間がすばらしかった」ということだ。
つまり、Nice to meeting you! ということ。
なんだー。日本にもちゃんとあった!
おいしいねー、おいしかったねーということはよく言うし
食事が何倍も素敵なものになると感じていたけれど
これからももっと言おう。気持ちをこめてこの言葉を使おう。
高校みたいにいつも一緒というのではなくて
会いたい、という気持ちが一致しないと会えないいま、
ありがとう、とうれしい、という気持ちをちゃんと伝えたいのです。
このクッキーは、たのしい食事のあとでおみやげにいただいたもの。
余韻がこうしてすこしずつ楽しめるのもとても幸せだった・・・
わたしも真似したい。幸せがすこしずつ続くようなやりかたを。
わたしなりのボランティアに行くことの意味。
クリスマスに岩手の仮設住宅にサンタをしにいくのですが
そこに飛び込む前に
「なんで私は行くの?自己満?寄付したほうが?モヤモヤ」と思うのです。
(ありがちw)
でも、なるほどなと思う考え方がありました。
すごくかわいくて今すぐ着たい服が1万円だとする。レジに行ったら
1万円をユニセフに寄付したら子どもの給食を30人分まかなえるというチラシを目にする。
そのとき多くの人はまるっと1万円寄付はしない。
それは人間は目の前のことに「オートフォーカス」して判断するから。
(人間には後で「マニュアルフォーカス」することもできるのだって。)
場所が離れたところで人が苦しんでいても、
「大変だなぁ。うわ、キャベツ1玉100円!買わな」みたいになる。
それがオートフォーカス機能だし、生きていく上で当たり前に必要だとは思う。キャベツ1玉ぜったい買うもん。
でも、いろんなところで何が起こっているかを知れる今、
ちゃんと行ってみてその場に「フォーカスをあわせる」ことが必要なのかもね。
なんかはっきりしました。
私は「フォーカスをあわせに」今の東北にいってきます。いくぜいくぜ!
フレッシュさがないということ
Photo: Shiba, Minato-ku
さて。元気に就活中です。(毎日楽しい!)
今日、人事の人とにフィードバックをいただく機会があったのだけど
フレッシュさがない。
落ち着きは中途採用の人でいい。新卒市場においてフレッシュさがないのはうんぬん。
と言われた。
それに対し反発はない。
「フレッシュさがないですね」と言われると
「まあ、ないですね」としか答えようがないしその説明には納得がいく。
けれど。
ひとつに、
「フレッシュさ」ほど、消えゆく美点なんてない。と思うのだ。
そこに絶大なる価値を置くのはどうなのだろう。抵抗がある。
わたしの友だちは年齢より成熟してる人がおおい。
(「20代にみえないw」なんて人もざらなんですが)
経験をつんで自分の中で熟考・対処してきた人たちで
とても信頼できる、魅力的な人ばかり。
そしてその魅力は消えることがない。
それを一言「フレッシュさがない」って言ってしまうのは
理解できるけど、それ以外の価値を見出さない、と決めてしまうのはどうなんだろう。
いや、わかるよ、新卒の価値はフレッシュさにあることも。
フレッシュな後輩かわいいよ。
もうひとつに、たしかに落ち着いた性格だし
中学生で老子にはまるようなわたしにはフレッシュ☆な時期なんて
そもそもなかったような気もするけど(笑
おばあちゃんになっても好奇心旺盛でやりたいことがいっぱいある自信はあるのだ。
いろんなことに「わあ、おもしろい!もっと!」という気持ちは常に持っているし
持ち続けたい。
今でもやりたいことはたくさんリストアップしてあるし、できると思っている。
ロードバイクにのる。
気まぐれバーテンダーをやる。
Green Drinksを開催する。
クッキーを焼くイベント。
などなど。
つまり、言いたいのは
フレッシュであることと
フレッシュなわくわくした精神をもつことは
まったく異なることだ ということ。
なのに前者しか見ていないのはふしぎだなぁ。
きゃぴっ
後記:せめてフレッシュさを補給しようとフレッシュネスバーガーに寄ったら
一週間前に閉店していました。つらい。
Be it ever so bitter
(記者)なぜ、観客が見たくないつらい映像をあえて見せるのですか
(高畑勲)そういうことは現実ではしょっちゅうだからです。最近は、見る側の「こうなって欲しい」という願望をかき立てて、それを満たす映画ばかり。イタリアのネオリアリスム映画「自転車泥棒」のように、挫折した人生を描く作品も万人が見た方がいい。(・・・)そうすると人生も分かるし、自分自身もそれなりに強くなる。
12月9日朝日新聞夕刊
この記事を読んで、即座に「トト・ザ・ヒーロー」を思い出した。
そのときのメモには
「すっごく苦い話なのに、あのラストの秀逸さ。人間への深い愛に裏打ちされているから、
観ると複雑な感情に襲われるけれどなんだかじわっとした後味でわるくない。」
と書いてあった。
復讐心に燃える男のあわれな一生、とにかくそういう内容だったのだけど
ラストで、死んで骨粉になったトトの笑い声がぶわわーっと風にまきあがりながら
風景をめぐるシーンがずっと流れる。
(映画は門外漢なのでカット、とかコマ回し、という話はさておき)すばらしいのだ。
この映画は「この男のみじめさをごらん。復讐なんてつまんないでしょ?悲劇でしょ?」
と終わるようなものではない。
最後のトトの笑い声がすべてなのだと思う。
自虐的な笑いではなくて、聞いている方もうれしくなっちゃうような、
ものすごく晴れやかな笑い。
だから後味が、こんなに苦い映画だったはずなのにすっきりとしているのだろう。
なぜだか、<人生ってこういうものかもね!>という気分にひたれるのだ。
何度も言うけど、こんなにも苦い話なのに。
すべて終わったのちの、何はともあれ晴れやかな感じ。
これは新年を迎えるのとちょっと似ているかもしれない。
これぞ、「人生も分かるし、自分自身もそれなりに強くなる」映画なのではないかと。
万人におすすめできる映画でもないけど。
観て思わず幸せな気持ちになれちゃう「ヘイフラワーとキルトシュー」とか
「ビッグ・フィッシュ」なんかもすきだけど、後味をたくさん残してくれる映画もよい。