砂漏

砂漏(さろう) きらきらすべりおちる時間のなかで、去ろうとする思いをとじこめて

感性ということ。

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 Photo: Minato-ku, Shiba

 

花は盛りに、月は・・・という雅な文章を習うずっとずっと前の

ちびちびだったころから、わたしはこういう感性だったかもしれない。

 

えのきょうしつ、が「絵、の、教室」だとすら認識していなかった頃。

絵の先生が新聞紙に包まれた、枯れて茶色〜のかぴかぴの花(らしきもの)を

テーブルにのせた。

 

それがひまわりだとわかるまで、ずいぶん時間がかかったように記憶している。

 

一般的にこどもに描かせると思われる

元気に咲き誇ったひまわりとはほど遠い物体・・・。(苦笑)

 

わたしの感性、ものの見方。よく変わっているといわれる。

見えるままに、見ないということ。

スタンダードから外れたものへの偏愛。

 

7歳でさよならだったにしろ、

先生のこういうものの見方はおとなになったわたしにも、影響しているかもしれない。

 

最近、ふたりの娘さんを育てる方と

"こどものときそういう大人と出会えるのはだいじだよね”という話をした。

 

感性はこうしてのびのび育ったのに、わたしは絵を描かなくなった。

 

祖母が、ほんとうに絵が上手だった祖母が、

わたしのほうが絵がうまいから、というよくわからない理由で

絵を描かなくなったから。

 

そんな痛みもあるし、

あんなに絵がすきだったのに、今もすきなのに、

わたしが描きたいものはなにか、実をいうと、わからない。

まわりが求めるものを描くこどもになってしまったからだ。

いったんそうなると、描きたいように自由に描くとか、

とたんに困難になってしまうと思う。

 

わたしの尊敬する仲間が、芸術実験室をやっている。

彼女は、描き方をすすんで教えたりしない。

「お互いの差異のすばらしさを驚きと感動を持って

見つめて認め合うという美の心を共に創るアトリエ」をひらく彼女。

3歳の女の子が創ったものをまじりっけのない敬意と驚きをもって見つめる彼女。

 

わたしは、焦げるような気持ちになる。

わたしも、自由に絵を描きたかったなぁ、と。

 

先ほど触れた、娘さんをもつお父さんの話。

娘さんたちが芸術の教室で描くものと、学校で描くものは、

あまりにちがうんだって。

 

こどもはほとんどみんなが、知らず知らず、

まじめに大人の期待に応えようとする。

 

今も、絵が描きたいなぁと思っても

ひとに見せることばかり頭をよぎる。

 

だからこそ。

「あなたの感性はすばらしいね」って

言ってくれるすてきな大人が増えればいいな。

 

きっと、自分の感性もまわりの感性も

笑顔でみとめられる人が増える。

 

ついでにいうと、

おばあちゃんにはまた絵を描いてほしいし

わたしもまたいつか、変な見栄とかぜんぶこそげとれたら

また絵を描きたい。

 

そして、こどものすばらしさを

まじりっけのないまま尊重できる大人になれたらうれしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おばぁの「宝」

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Photo:カイジ浜(沖縄)色集め

 

この夏、竹富にいってきました。

 

白い砂の道。ひくい石垣に咲き誇る色鮮やかな花。

土のにおい、波、ときおり聞こえる音楽、フルーツの熟れた香り。

 

島には独特のゆるやかな風がふいていた。

 

夜は民宿 松竹荘へ。

 

砂の道のおかげか夜は風もここちよくすずやかで。

中庭に旅行者たちもひとりふたりと、なんとはなしに集まり

民宿のおばぁが出してくれた泡盛を片手にゆんたく(おしゃべり)。

 

戦争も生きのび、たくましく生きてきたおばぁ。

 

「人とのつながりがある人生がいちばんの幸せ。

 それが宝。出会ったいろんなひとと仲良くしなさい」

 

おばぁはくりかえし言う。

 

わたしは頑なに一人でがんばりつづけようとしていたのを

ここ1年半ほどでだいぶ人とのつながりで生きることがしあわせだ、と

考えられるようになっていたので

 

80のおばぁのことばは余計にじんわりと波のように心に響いた。

 

おばぁくらい生きていると、しあわせだと思うことはきっと

人とのつながりになっていくんだろうなぁ。

 

人とのつながりが多い人生はゆたかで、色とりどり。

 

 

「人生」というのは、たぶん、「人が生きる」ではなくて

「人と生きる」ことなんだろうな。

 

島では不便な暮らしから、助け合うのがあたりまえになっている。

きっとそういうところからも、このおばぁの言葉はきているんだと思う。

 

泡盛。おばぁの話。旅の話。釣ったばかりのお魚・・・

 

めくるめく美しい旅の夜となりました。

 

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Photo: 西表島

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森のなかで気づいたこと

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 photo: Saku, Nagano

 

長野の森小屋で暮らしている人のところに仲間たちと遊びにいった。

 

昼はわさびの花やタラの芽を収穫して。

ハンモックでゆらゆらしたり、本を読んだり

あかるいうちからワインを飲んだり。

 

夜はテラスで料理をして

キャンドルを灯していろんな話をして

ドラム缶風呂にはいりながら星をみあげ。

 

朝は散歩のあとにしぼりたての牛乳を飲んで

みんなで外でオムレツをつくる・・・

 

そんなムーミン谷のような豊かでゆるやかな生活がそこにはあった。

 

 

・・・

 

すばらしく自由であたたかな人たちと

山の景色を見ながら料理してお酒を楽しんでいるとき、

ふっと、涙がでるくらい幸せな気もちで

 

あ、わたしにもこんな風に人生をたのしむ権利があるんだ!

 

という「あたりまえ」なことに気づいた。

 

今まで「死ななかったから、成すべきことがあるはず!」と

しがみつき、目をふさぎ、自分を苦しめていたのが

「生きていたんだから、幸せな瞬間をたくさん経験していいんだ・・・」

にかくじつに変わった瞬間だった。

 

これまでにも、もったいないほど幸せな瞬間を数え切れないほど

もっていながら、そう思えなかったんだよな。

 

あと、自然のなかに身を置くことで

 

自然はいつもここにあって、わたしは人間だから自由に動ける。

どんなわたしになっても、消えてしまっても、自然はただそこにある。

 

ということをなんとなく実感し、安心とパワーをもらう。

 

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そして。

家に帰って、ぐうぜん4年前映画を自主制作したときのコンセプトがでてきた。

 

ひさしいあいだ枯れしぼんで閉ざされていた

わたしの心は いま美しい世界に挨拶する。

その枝々は芽ぐみ つぼみをつける。

新しい世界のみなぎりに。

そうだ、わたしはもういちど生に帰ってきた

 

          ヘルダーリン「ディオティーマ」

 

 

これを書きつけた頃、なんとか「こっちの世界」に戻ってこようともがいていた。

いまわたしは、まさにこの通りの世界に身をおいていることを実感している。

 

生きていたんだから、人生をこれからたのしんでいいんだ。

そうだったそうだった。

 

あしたは友人が来るからマドレーヌを焼くし

あさっては外でバーベキューして映画を見る。

 

そんなふうに楽しんで、まわりに感謝しながら

生きていって、いいんだなぁ。

 

とってもうれしいなぁ・・・。

 

 

 

 

 

 

「生かされている」というかんじ

 

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福岡の親友から小包が届いた。

中身は、ビーツの酢漬け。

 

彼女のもうひとつのふるさとであるモンテネグロではポピュラーなものだそう。

手紙には、鉄分も豊富だということや

元気でがんばってねという言葉がならんでいた。

 

昨晩いただいたキーマカレーとともに、

心温まるおひるごはんを美味しくいただいた。

 

カレーも、ビーツも、

どの時点かでわたしのことを想ってくれたんだなとおもうと

とても胸があたたかい。

 

 

思うのだけど、

わたしは辛うじて死なずにすんだという思いがあって

「わたしは生かされたんだ!」と信じなければ

ふとした瞬間に暗い世界にひきずりこまれるような気がして

こわかった。

せっぱつまって、しがみつくように

ひとりで磨き続けてしまった冷たい思いだった気がする。

 

でも今、あたたかくやわらかい気持ちで

「わたしは生かされている」と思っている。

 

それは、「わたしは人とつながっている」という全然いままでとちがう感じ。

わたしは生かされている。

わたしのよろこびや悲しみや健康はだれかと無関係ではない。

 

 

こんなふうに思えるようになるときが来るなんて思っていなかった。

 

ちいさな、でも確実な変化がしずかに起こっているのだ。

 

あんなにも隣にあった死の世界が、だいぶ薄まって遠のいている。

そのかわりに、ゆるゆるとした幸せなかんじがひろがっている。

 

びっくりだ。

 

 

Gravity is real.

このあいだ、新年会で深夜帰宅したら鍵がないことに気づきまして。

 

鍵がないと家に入れない、という明白な事実を前に呆然としつつ漫画喫茶で寝ることに。

 

ちいさな寒い個室で寝っ転がって、わたしは

 

地面に寝っ転がったまま動かないホームレスとか戦災孤児を思った。

 

たぶん、1度寝っ転がったら、起き上がれなくなる。死んでるのと境目があまりなくなる。

 

わたしは10日間寝たきりでひさびさに起き上がろうとした時の激しいめまいを覚えている。

 

こんなにも、じぶんは重力に逆らって生きていたのか!!!という

 

強烈な生の目覚め。

 

大橋トリオの歌で

 

Gravity is real

 

という歌詞があって、まさに、リアルな生の感覚は重力に起因するのかもしれないと思う。

 

先日、山崎直子さんの講演でいわく、

 

地球に戻ってきたときの土や風の感覚に感動するのだって。

 

ここは重力の世界なんである。

 

 

・・・なんて漫画喫茶で考えた。

 

それにしても、自発的に家出するならまだしも、

家で寝られないのはつらいな。

 

おふとんのありがたみをしみじみ感じて

次の日は寝ることがなにより楽しみで幸せでした…笑

花見つつ春日暮らさむ

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Photo: 後楽園

 

後楽園の近くに来たので立ち寄ったものの、

お花は咲いていないし天気も曇っているしなぁ、と思っていたら

 

奥の梅林にふくらむつぼみと、ちらほらお花が。

 

うすい光のなかの梅。

 

人もいないし、とても幻想的でした。

 

 

 

One Way or Another way?

f:id:mimi1989:20130101234854j:plainPhoto: 5th Ave.NE Seattle, WA

 

今年をふりかえると、とてもいい方向に変われた一年だった。

 

長い逡巡があったけど、

ここ6年くらい続いていた呪縛がようやくほどけていったかんじ。

 

 

シアトルに行ったりいろんな人に会ったりして

 

今まで見ないようにしていた「ほんとうに、幸せ」なあり方を

考えて考えて考え抜いた。

今まで閉じこもっていた塔を壊したら楽になったし新しい世界が見えた。

 

同時に、まわりによい仲間が集って、

その幸せのかたちが見えてきた。

 

シアトルでこの標識を見ては

このまま進むか、方向転換するか、後悔しないのか

 

ずっと考えてた気がするけど、

道はどこかで自然とつながっていくのかも、

 

ほんとうに心に従っていけば。

 

そして心に従える環境にあるのはとてもしあわせなことだ。

 

 

とてもポジティブに、ワクワクした自分に生まれ変われた一年だからこそ、

 

年を取ってもやる、自分との約束を考えた。

 

1.No judge, but I wonder why

2.Having fun!

3.  Stay curious, Never settle

 

今年もたいへんお世話になりました。

 

いまのわたしがいるのは、あの人の、この人のおかげ。

はやくありがとって伝えたいな。

 

来年もよろしくおねがいします。